◎ 沿  革 
              
        
◎年不詳 ( 益田藤兼時代 )。匹見
町谷口の金山城( 既報レディスま  
すだ・ふるさとの歴史二七参照 ) の
城主・澄川久嘉は、三隅河内の河
内次郎兵衛の反乱の時、藤兼のも
とで参戦。感状を受ける。( 石見
匹見町史の澄川氏系図による )。
◎年不詳。久嘉の子弘家は津毛郷
( 山本 )金谷に転封され、入船山
城主となる。築城がこの時であっ
たかどうかは不明。     
 おそらく前身が金山城主であっ  
たことから考えられることは、鉱  
山かたたらに関する支配や能力を有し
ていたことを評価されたと思われ、
益田氏が美濃郡随一の銀銅山の丸
山の管理を澄川氏にゆだねたもの
と思われる。
◎晩年、弘家は居を三隅上市に移
す。( 江戸時代か )
( 石見匹見町史の澄
川氏系図による )

※しかし、美都町史
の「金谷土居澄川家  
の系譜」の頃による
と次のように出ている。
◎応永三〇年(一四
  二三 )藤原秀郷の後
胤・澄川大和守秀行
 (澄川叶松城主)の
長男但馬守俊長の時、
寺戸和泉守に攻めら

れて叶松城は落城したので津茂村
金谷に住拠する。(金谷土居澄川  
家の由緒書 )
◎永享三年( 一四三一 )五月、澄
川三左衛門秀親は益田兼理に徒い
筑前深江で、兼理と共に戦死。
 また、秀親は生前、西長沢に永
沢庵(現・益田市神田の永沢寺の
旧跡)を建立。( 土井系譜より )
◎年不詳。澄川長右衛門秀忠、民
間に下る。( 士井系譜による )
◎慶長一九年( 一六一四 )石見検
地。澄川兵部左衛門秀喜の代に当
たり、 家屋焼失。( 土井系譜より )
◎年不詳。澄川源左衛門秀悦は銀
銅山年寄役となる( 同 )
               以下略

( 考察 )以上、匹見町史と美都町
史に出てくる澄川氏の系譜は全く
異なっている。特に、美都町史の
土井澄川家の由緒書は後に書き記
したもので匹見町史の澄川氏系図
との差がある。
 また、西長沢の永沢庵建立をし
たことになるとこの地の領主とい
うことであり、伝承に残る「西長
沢にも叶松城」があったという話
から考えて、この地の澄川氏が攻
められた(仮に「寺戸氏」からと
して)と考えられるこの叶松城
は未調査であるが、須川の相撲が
原から東方匹見川側の谷間に見え
る山がそれであろうと思われる。
 次に益田兼理と共に九州で戦死
したということは、益田氏の家臣
ということであり、同一家臣の寺

戸氏から攻められるということは
おかしい。また、寺戸氏の入部は
兼理の子・益田兼暁の代に美濃郡
三郷( 匹見、丸茂、津毛 )が三隅
氏から益田氏に返還されて以後に
なるので年代的に問題がある。
●「秀忠、民間に下る」の項は領
主(おそらく叶松城城主)から身
を引くわけだから、おそらく体制
に変化があったと考えられ、領主
級の人が民間に下るとすれば関ケ
原合戦以後、江戸時代に入ったこ
とを意味するのではなかろうか。
●「秀悦」の代になって初めて銀
銅山の年寄役に抜てきされている
氏が金谷に定住したと思われる。
しかし、江戸時代は・国一城令が
出されていた関係で、入船山城は
既に使われておらず山銀銅山は
幕府直轄の天領となっている。
●いきおい中世における入船山城
の城主は、匹見町史に載っている
澄川弘家であったといえる。


◎ 特 色

G葛籠川と金谷川にはさまれた山塊に、原屋氏
を神主とした山神社( 現在は大元神社 )が今も
残り、となりに入船山城がある。
◎現在、大手( 武者溜り )広場に山桜の老木が
あって、「城山桜」と呼ばれ春の開花時には花
見客でにぎわっている。また、根元に不動明王
の石像( 江戸時代 )が安置されていて、信仰の
対象にもなっている。
◎城には前後に堀切りが一本ずつあり、裏山と
の間には深く巨大な切り通しが入り、城の縄張
りを形成している。
◎主郭に立てば眼下に丸山鉱山跡が望まれる。
◎後方の堀切りの葛籠川側の端は縦掘りとなっ
て下方に落ちている。多分に戦国期に造られた
感がある。
◎防御施設としてはあまり堅固なものではない。
江戸時代には鉱石を金谷地区に運んだといわれ、
大手を横切る古い山道が残っている。
◎入船山の名称は、入船というから、船を入れ
て鉱石や物資の輸送をしたものであろうか。


  
タウン誌「レディースますだ」より引用


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